【自己理解と成長②】私が大切にすること

2019年10月24日 更新 BEAUTY・HEALTH
【自己理解と成長②】私が大切にすること
前回の記事の続きです。

「【自己理解と成長①】コンプレックスから”普通”に憧れた思春期」はこちら。

新しい環境で良い方向へ変化する

高校生になり、新しい環境になったというだけで良く変化した事が1つあります。それは、中学であんなにも悩み苦しんでいた「一般的」や「普通」への呪縛から開放されたことです。

なぜなら、中学までは狭い地域で学区が決まっていたので同じ団地に住んでいたり、親が同じ職業だったりと似たような境遇の友人が必然と多くいましたが、高校で学区がなくなると驚くほどいろんな境遇の人がいたのです。

境遇などで悩んでいる人が誰1人として存在していないように見えていた中学時代でしたが、高校に入るとみんなぞれぞれ問題や悩みはあり、それを少しずつ乗り越えているのだと知ることができました。環境の変化で好転したのは1つでしたが、ずっと悩み苦しんでいた「1つ」がこんなにも簡単に開放され、目の前の霧が晴れていくようでした。

成長のきっかけ

高校になり、何より私を変えてくれたのは「恋愛」だったように思います。

中学までは自分自身、女という性別を意識してきませんでしたが、高校生活という新しい環境で周囲は当然のように「女の子」として扱ってくれました。最初はぞわぞわとこそばゆかったですが、慣れてくると順応したのか嬉しく感じることができました。

少しずつ少しずつ備わっていった自分

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中学までの私は恋愛の「れ」の字も知らないおこちゃまでしたが、高校に入ってからは友達からの後押しもあり苦手だった恋愛に少しずつ挑戦していきました。挑戦することはとても苦手でしたが、高校で私は自分を変えようと思っていたこともあり、とにもかくにも挑戦はしてみようと思うことができました。

全く知らなかった恋愛は、今まで他人だった見ず知らずの人が自分の味方になってくれるといった不思議な感覚でした。信じてもらえることや大切にされることで、強い安心を得れたり大切にしようと思えたり、こんな自分に大切にされることを嬉しく思ってくれる人がいると知れたこと。恋愛は女の子としての感覚を教えてくれただけではなく、私自身に対しての自信もつけさせてくれました。

恋愛やアルバイトなどの社会経験などを通じて少しずつ自信を身に着けることができ、自分自身の感情を大切にできるようになりました。そうすると自然と人と自分を切り離して考えられるようになれていたのです。

信じ切るリスク

高校、大学と徐々に年齢を重ねていき、沢山の恋愛や人間関係、アルバイトなどの社会経験を通じて自信や打たれ強さなどが備わるようになりました。全てではありませんが自分の行動に自分で責任を持たなくてはいけなくなるため、迷わなくなったのかもしれません。

そんなある日、私は信頼していた人から大きな裏切りをされました。
当時の私にとってその裏切りはとてもショックが大きく、文字通り全てを失ったように絶望に打ちひしがれていました。また、同日、弱みを見せることが苦手だった私が、勇気を出して当時の親友に話を聞いてもらおうと電話したところ、遊んでいて都合が悪く今は話せないとぶっきらぼうに電話を切られてしまいました。その行動にもとても傷つき、人を信じ切ることの大きなリスクを身をもって痛感した。と当時の幼い私には大きな教訓となりました。

日常生活における被害者と加害者

当時の私は、信頼を踏みにじった人からの心からの謝罪を求めていました。そうされないと納得もできませんでしたし、この憎しみや辛さといった感情からも解放されることができないと思っていました。

しかし、実際に当事者から何度か謝罪をされましたが傷ついたものに対し謝罪の深刻さが釣り合っていないような感覚で、そんな謝罪ではちっとも腑に落とすことはできませんでした。反対に中途半端な謝罪を受けたことにより、益々求める謝罪が大きくなっていくようにも思いました。
被害者なはずなのに、なぜこんな気持ちにさせられなければならないのか。求めている謝罪すらまともに受けることもできないなんて、自分勝手で残酷な人だと思いました。
しかし、おかげで私は他人を信用するにはリスクを負うという大切なことを学びました。そしてそれは「私だけ」でなく、お互い様であると知ることができたのです。

「自分」

人に裏切られるといった経験で、痛感した信用することのリスク。何も備えないで次にまた同じ思いをするなんてことは私には怖くてできませんでした。自分自身を守るためにも、また周りの人を不本意に同じような思いにさせないためにもどうしたらいいのかを日々考えるようになりました。

信用と依存の違い

今回のことで私が時間がかかりつつも最終的に学べたことがあります。信用していた人が負うべき責任と、私が負うべき責任です。

「裏切り行為」は100%相手に責任が負うべきだと思いますが、私が「傷ついた」というのは相手に100%の責任がある訳ではないと思いました。勿論相手の裏切りが無ければ私はこんな感情にならなかったわけですから、相手にも責任はあると思いますが、少なからずこの部分には私にも責任があったということです。

相手をそこまで信用しきっていた私の責任でもありますし、さらには相手に謝罪を「求めた」責任です。

私は私の感情の結論を相手に委ね過ぎていたのだと知ることができました。人がどんな判断をしたとしてもその人の自由だということ、人の人生と私の人生は別物なのだから、人に依存し責任を求め過ぎるのは自分の人生を他人に委ね自分の人生に対しその分、無責任になってしまっているのだと思いました。
私は、私の人生を私なりの方法で選択し責任を持ちつつ生きていかなければならないのだと思うことができました。

普段から気を付けるよう努力している事

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日々過ごしていく中で、意見を求められたり選択を迫られたりしたときに自分の人生に責任を持とうと、意見を述べると例え気を付けていたとしても、不本意ながら人を傷付けてしまうことがきっとあると思います。

考え方は十人十色なので、私がAと判断しても他の人はBやC、D・・・といったように様々に判断する自由があるからです。なので私は「なるべく」不本意に人を傷つけないために、自身の発言や行動に対しある程度の努力のをすることは大切だと考えるようになり、普段からも意識的に努力するようにしています。

・出来事に対し断言をしない努力をすること
・行動に対し自身の考えを強要しない努力すること
・何か意見や主張をするときは「私なら」という主観をつけるよう努力すること

当然ながら他人の行動に対して私は責任を持つことができないため、行動言動の最終判断は自身の判断に任せるためです。また、私とは違った考えを持った人だったとしても、「これは私の個人的な考えです」とつけることで個人的意見としてインプットできると考えています。


私が10代の頃「とりの意見は正しいけれど、その正しい剣で人を傷付けるときもある」と言われたことがあります。その意見を聞いた瞬間、はっとしました。悩みの「答え」は「正論」ばかりではない、そんな当たり前の事に友人は気が付かせてくれました。

私という人間がいて私に適した解決方法や、考え方、意見を持つように、人には人の適した解決方法や考え方、意見を持っています。数学のように正解不正解のない「人間の感情」だからこそ、全ての人の行動に正解を決めることを不可能なのかもしれません。私はこう思うけれど、他の人は違った意見を持っている。そう思うのです。

意見と暴力の見分け方

中学の時に同じ班の女の子にされたシカトですが、大人になってようやく「意見」ではなく彼女達による一方的な「暴力」だったと思えるようになりました。
また、SNSでも極稀にですが目を疑うほど悪意に満ちたコメントが届くこともあります。内容や意見が全く無く、目的や趣旨としては「傷つけたい」もの。これは紛れもなく「暴力」だと私は捉えています。

自分を見失わないために

自信や責任、強さが備わるからこそ、どうしても自分と意見の合わない人や価値観の違った人も出てくるようになってくることもあると思います。社会に出て上下関係がある組織に所属すると必然とそういった人と過ごさなければならない時もありますし、自分が一方的な判断や決断を強いられる立場になり反感を買う事もあるのです。自信を待つことは本当にいいこと?弱い大人は生きていけない?自分の立場から発した行動言動が誰かを傷つけているかもしれない?また、いちいちなんでも深く考えていたら疲れちゃう、と思うかもしれません。
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私は自分を見失わないように心にとどめている「知足」という言葉があります。
足るを知るという意味です。

人生は平等ではないと言われています。そればかりを考えると一見、残酷だ。と嘆く人もいるかもしれません。世の中にはあんなに美人がいるのに。あんなに裕福な人がいるのに。なんでかあの子はいつもいいことばかり起こるんだ。なんであの人は私が欲しい物ばかり持っているのだろう、なんて。そんなことばかりに頭を使ってしまうと自分は不運なんだ。と落ち込んでしまい、満たされている人に辛く当たってしまうなんてこともあるかもしれません。

しかし、大袈裟かもしれませんが世界的に考えたり、時代で考えると、今の日本に生まれたということはとても幸運なことなのだと知ることができます。当然のように安心して暮らせる家がある。何か事件に巻き込まれれば警察に連絡すればいい、病気や事故に遭えば救急車が来てくれ、コンビニに行けば数百円で温かい食べものでお腹を満たす事もできます。戦争も略奪も飢えも知らず、寒さや恐怖、不衛生で劣悪な環境でもなく、義務として教育まで受けさせてもらえます。保護者がいること、子供がいること、ペットがいること、甘くて美味しい飲み物が飲めること。

私たちは、世界的に見てもとても恵まれているのは事実なのです。当たり前だと思っていることも当たり前でない状況の人が今現在も沢山います。


だからつらいことにただ耐えろ我慢しろと、ここで伝えたいわけでは決してありません。ただ少し自分の中で嫉妬やジェラシーなどの感情が生まれたときに、自分より満たされている、と他人を妬んでいる自分自身も、他の人からしたら満たされていると映っているかもしれないといったことを知ることは大切だと思うのです。

自身の満たされているものにしっかりと目を向けることができれば、辛いことがあっても勇気をもらうことが出来たり、自分の日常に感謝する回数がほんの少し増え、結果として人と接するときに余裕をもって行動や言動に移すことができたり、感情が落ち込んだとき、高ぶってしまったときにふと落ち着けたりするのかもしれません。